差別感情の哲学

先週からゼミでは哲学をすることになりました。考えていくテーマは差別で、差別感情の哲学という本の一部分を読みました。読んでみて特に気になった所、疑問に思ったところを書いていこうと思います。

その前に先に差別ときいて私が思いつくことを書いてみます。

私の中の差別のイメージ

いじめ、人種差別、部落差別....

差別はすることで傷つく人がいる、してはいけないこと 身近なことのようでそうでもないような なんか大きなテーマだな というイメージです。

 

 

では差別感情の哲学を読んで思ったことを書いていこうと思います。

文章はA.B.C.Dの4つのパートに分けられていたのでこれに沿って書いていきます。

まずはAパート「悪意は人を鍛え、かつ人を滅ぼす」 から気になった所を挙げていきます。

<他人を苦しめようとし、その苦しみを喜び、他人を破滅させようとし、その破滅を祝う存在者なのである>

前述されているように危害を加える動機には当人にも不明なものがあり、あらゆる動機によって他人に危害を加えるというのは納得できるのですが、何かを守るために危害を加えてしまった場合はどうなるのだろう?危害を加える者は本当に破滅を祝っているのか?危害を加えた後に後悔する人もいるのではないか?とこれは言い過ぎなのではないかと思います。またこの後の文に

<攻撃衝動を抑える代わりに、生涯を通じて罪悪感と闘い続ける>

とあったのですが、危害を加えた後に後悔したとすれば攻撃衝動を抑えなかったとしても罪悪感と闘い続けることになるのでは?と思いました。

<いかなる敵も存在しないところには、いかなる味方も存在しない>

これは納得できるようでできないなと思いました。納得できる理由としては、中学の部活で先生に不満が募れば募るほどみんなが一致団結したという経験があったからです。確かに敵の存在により味方が集まり団結するというのは理解できます。しかし敵がいないからといって見方もいないということになるのでしょうか?

<友情も恋愛も家族愛も破壊しようとする敵がいてこそ大切な絆なのである>

これも違うのではないかと思います。敵がいたから深まる絆もあるとは思いますが、単純に一緒にいて落ち着くとかいうのは敵の有無にかかわらず大切な絆となるのではないかと思います。

<無数の不可欠のことが攻撃衝動を断ち切ると同時に人間の生活から消滅してしまう>

ええ?それはないだろうと思いましたが、この文自体なんとなくわかるようでわからなかったので反例を想像することもできず、わかりません。そうなのか...?

<悪意のうちにこそ人生の豊かさがある。それをいかに対処するかがその人の人生の価値を決めるのだ>

なるほどと思うような思わないような...

Aパートはそれ本当?と思ってしまうところが多くありました。

 

次はBパート「快・不快を統制する社会の恐ろしさ 」です。

<不快を感じてしまうのであり、それはどうすることもできない>

その通りだと思います。赤ちゃんの頃から善悪の判断はできなくとも快不快の判断は教えられなくてもできるものであり、不快に感じてしまったものはどうしようもないと思うからです。

<不快の無制限の発露を許してはならず、何らかの統制をすべきである>

許してはならないと言われても不快に思うことは止められない 止められないからと言って放置もしておけない だから統制する しかし統制したところで表面は良くなっても、不快には思っているわけで 根本的な解決にはならない となるのでしょうが、不快を放置している状態よりはましなのではないかなと思います。

 

「差別感情のスペクトル」に移ります。

<社会的劣位グループの構成員をその構成員であるがゆえに一律に不快と思うという感情のみを差別感情とする>

そもそもこれは不快という感情だけで差別しているのでしょうか?○○=排除すべきものだと考えているだけではないのでしょうか?それは本当に不快なのでしょうか?何を基準に劣位ととらえるのでしょうか?なんとなく、不快だけで片付けるにはもっとどろどろとしているように思います。

 

Cパート「帰属意識アイデンティティ」に移ります。

<自分の属している集団を過度に愛すると、それがいかに悪意のないものであろうと差別感情を育てる温床になるのだ>

その通りだと思います。しかし、受け取り手が自分の属す集団に劣等感を抱いていてこじれてしまうこともあるのではないかと思いました。

「家族至上主義」に移ります。

<最大の幸福と信じきっているから、この幸福をすべての人に要求するというすさまじい暴力をーあくまでも穏やかな形でーじわじわと実行するのである>

価値観の押しつけはいけないし、幸せは他人に測れるものじゃないと思いますが、実際、障害を持つ方は持たない人に比べて苦労が多いだろうし、家族に恵まれない人は寂しいことがあるだろうと思います。だから苦労の少ない人がかわいそうだと思ってしまうのは仕方のないことかなとも思い難しい問題だなと思いました。

 

最後にDパート「『 よいこと』を目指す態度」です。

<意識を変えるには、意識という、もっともやっかいな相手を敵にまわさなければいけないからである>

よいことを学べば悪いことも学ぶ  悪を軽蔑することはよいことを知り、正しい方へ進んでいる証拠でもあるだろうし、起こって当然の差別だよなあと思いました。そんな当然の意識を変えるのは本当に難しいだろうし、どうやって変えたらいいのだろうと思いました。

 

 

合っているか分かりませんが、まとめるとこのようなことを述べているのでしょうか。

・悪意は消去するのではなく対処すべきもの

・不快は統制できないが、放置もできない

・統制したから、不快を隠したからといって解決するわけではない

・悪意がなくとも、自分の価値観しか見えなくなってしまうと、それを他人に押し付けたり、あてはまらないものは排除してしまったりというようなことをおこしてしまう

・意識を変えることは困難で、意識に基づく差別は手に負えない

 

こうしてみてみると差別がうまれるのは仕方の無いことに思えるし、どうしようもなく思えます。小学校の頃から差別はしない しちゃいけない と言われてきましたが、差別しないことはできなくて、自分の中に差別の感情が芽生えた後のことを考えるのが重要なのでしょうか。

 

 

 

その他、読んでいて気になった単語がありました。

Bパートに出てきた「常識」と「暗黙の前提」です。

常識や暗黙の前提というものををふまえることで争いが起きないように差別を生まないように、私たちは自然にそういう行動をしているはずです。しかし逆にそうすることで生まれる差別もあると思います。常識や暗黙の前提に従えなかった人がいれば、その人は異質なものとして排除されるはずです。そして、そこでまた差別が生まれるのでしょう。常識や暗黙の前提に従うことは大切なのだろうけど、同時に煩わしいものだなと思いました。

 

あとは、普段は特別意識しないような言葉も、差別につながるものなのか?と意識させられました。

高級、高尚、優位、清潔、勤勉...じゃあ反対は?低級、低俗、劣位、不潔、怠慢 となってしまうのか?と敏感になってしまった気がします。

 

 

なんだか考えれば考えるほど差別に近づいていくような気がしました。