哲学の時間 2

 

 

今週のゼミでも先週に引き続き差別について考えました。二つの問いを投げかけられ、グループに分かれて対話をしました。

今回の問い

1.なぜわれわれは「あなたは差別をしている」と言われたくないのか?

2.差別をしたくない場合、どうすればいいか?

  あるいはそもそも差別はしてしまっても仕方のないものなのか?

哲学対話をしてみてグループでは

問1の答え

・小さな頃からしてはいけないといわれてきたから

・社会的に排除されるから

・周りの目が気になるから       

問2の答え

固定観念を取り除くべきなのではないか

・やはりしてしまっても仕方のない差別としては許されない差別があるのではないか

というような結果となりました。

何度も いやーわからんよと言いたくなりました。

特に問2が難しく、自分でも自分の考えが分かってないままの発言ばかりだったので申し訳ない気持ちともやもやした感じで対話の時間を終えました。

 

 

グループでも仕方のない差別と許されない差別に分けるべきという意見も出たしゼミの時間の最後に悪は大事な場合もあるとの話もあり、そうだよな~となんとなく納得したのですが、考えているうちに、え?本当に?仕方ないで済ませていいの?傷つく人がいても大事だといえる悪とかあるのか?と思い始めました。

私はずっと差別する側ばかりをを考えていたのでされる側のことも考えてみようと思います。

差別する側

・優越感がある(場合もある)

・不快だから遠ざける(場合もある)

・自分の価値観以外を認められない(場合もある)

・差別している自覚はない(場合もある)

罪悪感はある(場合もある)

差別される側

傷つく

・怒り

・味方で団結、立ち向かう場合もある

 

箇条書きで書きましたが差別される側に関してはまず、なによりも傷つくという感情があってからの怒りや立ち向かう勇気が生まれるのではないかと思いました。そして差別をする側は罪悪感もある場合があると思います。その罪悪感の中には差別といういけないことをしてしまった自分への罪悪感、または差別をしたことで傷つけてしまった相手への罪悪感どちらもあると思います。

このことを踏まえて問いを考えていこうと思います。

 

なぜわれわれは「あなたは差別をしている」と言われたくないのか?

 「あなたは差別をしている」と言われたくないと思うことには「あなたは差別をしている」=「あなたはいけないことをしている」と捉えているいう前提があるように思います。そしてそのことを自分中心で考えた場合には不安な気持ちが生まれ、差別した相手のことを考えた場合(直接差別をしたとき限定かもしれない)には罪悪感が生まれる から差別をしていると言われたくないのではないでしょうか。

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自分中心で考えたときの気持ち



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相手のことを考えたときの気持ち



 差別をしたくない場合、どうすればいいか
  あるいはそもそも差別はしてしまっても仕方のないものなのか?

まず私は差別をしたくない場合というのを、どうしてもいやに思ったり不快に思ったりしてしまい自分の差別する気持ちが止められない場合と捉えました。

そしてそれを止めるには本当にそれは不快なことなのか、なぜ嫌なのかを考えてみれば理由がわかり、そう思わないようにする方法が浮かぶのでは?と思いましたが不快であることの理由は自分ではわからないこと(生理的に無理みたいなみたいな)が多いと思うので本当にそれが不快なのかを考えるよりも、不快でないところ・いいところを探したらよいのかなと思いました。不快な部分よりもいい部分を思い浮かべるようにできれば差別する気持ちは自然と消えていくはずです。

ではいいところが見つからなかった(なかった)らどうでしょうか?

どう考えても悪いところしかない、最低な人だったら自分の中の差別する気持ちは抑えられないでしょうから、差別する気持ちが生まれることは仕方のないことだと思います。このようなどうあがいても差別の気持ちが生まれる時に、資料にもあったように差別してないようにふるまえばいいと思いました。でもこれは(自分の体裁のためもあると思いますが)基本は相手を傷つけないために、相手のことを思ってとる行動ですよね。ではその人が思いやるに値しなかったら、その人が差別されたことで自分の行動を自覚し改善されるのだとしたら、差別してないように振る舞う必要すらないのではないか、もはや堂々と差別をしてもいいのではないかと思えてきました。しかし、そのひとを価値のない人だという判断は主観的であり、自分がいくらその人は悪いと思っていてもある人から見たらそうではないかもしれません。そう考えると心の中の差別は止められないとしても、やはり、して仕方のない差別はないように思います。

私は差別はされたら傷つくのだと書きましたが、では差別された側が傷つかなかったら、そして怒りも生まれず争いも起きなかったら、または気づかなかったら(なかなかそんなことはないとは思いますが)してもいいということになるのだろうかと思いました。それは違うだろう、してはいけないだろうと普通はなると思うのですが、してはいけない理由が分かりません。もし自分が小学校でこのような質問をしたら、じゃああなたは気づかれなかったら悪いことをするのかな?とか聞かれそうですね。でも差別は人を傷つけてしまうから悪いとされているのでは?だから傷つく人がいなければ悪いことでもなくなるのかなと思ったんですけど... 

勝手に小学校の先生に反抗してみましたが、もし質問してたらなんて答えてくれたのかな。私が質問されたとしたら、一番最悪なパターンだと思いますが「いけんもんはいけんったい」と封じ込めてしまいそうです。