振り返り・スケジュール

先週のスケジュールについて

先週1週間やることを時間を決めて実施しました。開始時間は割と守れたのですが、終了時間は作業を止めることができずにほぼほぼ30分~1時間オーバーしました。

 

先週のゼミについて

自己PRを発表し、どこを改善すればいいか教えてもらいました。これくらいでいいかなって感じで書いていたので、もっとちゃんと考えねばとなりました。

と思いながらもまだ改善していないので今日こそ考えます。

 

久々

開けようと思った時に限ってメンテナンスが行われていたので開けていなかった就活サイトを久々に開けました。すると、行きたいかもと思っていたインターンが先着順で満員となっていました。やっぱりメールが来たらすぐサイトを開くべきだなと反省しました。

 

え~どうしよう

プログラミング講習を受けており、先週チームが決まりました。

そこでチームの今後の方針を決めるため話し合いを行いました。どういう制作物をつくっていきたいか話し合ったのですが、私が意見をしたところ、それは○○のパクリだよね?どう違うの?と厳しく問い詰められ驚き、へこみました。

いろいろ思うところはあるのですが、私は今後どうしていきたいのか、きちんと考えてみようと思いました。

 

今週のスケジュール

6日(火)23:00~24:00  チーム作業

      24:00~25:00  自己PR改善

                 25:00~25:30  エントリーシート提出

7日(水)8:00~9:00       頑張ったこと考える

                 9:00~9:30   面談準備①

      21:00~22:00  強み弱み考える

                22:00~23:00  面談準備②

8日(木)18:00~                面談

            21:00~22:30  講習

       23:00~24:00  復習

                

 

 

 

 

 

 

スケジュール(9月27日~10月1日)

後期のゼミは今週からチームに分かれて活動していくことになりました。

私たちのチームは1週間業界研究や自己PR作成などを行い、来週共有することとなりました。

✎私のスケジュール

 

9月27日(日)

22:00~22:30 インターン復習

今日参加したインターンの復習を少ししようと思います。

インターンは事前に郵送された資料通りの内容でがっかりしました。

23:00~24:00 プログラミング復習

プログラミング講習の復習です。

 

9月28日(月)

10:00~12:00 プログラミング復習&課題提出

できるだけ先まで目を通しておこうと思います。

 

9月29日(火)

20:00~21:00 IT業界研究

調べてパワーポイントにまとめていきたいです。

 

9月30日(水)

22:00~23:00 自己PR作成

とても嫌ですが、しなくちゃいけないなと思っていたので頑張ります。

 

10月1日(木)

20:00~21:00 IT業界・自己PRまとめ

終わってなかったらします。

21:00~22:30 プログラミング講習

22:30~23:00 復習

来週木曜こそすぐ後に復習します。

 

という感じで決めました。自己PR作成は一気に考えても出てきそうにないのでちょこちょこ考えていこうと思っています。

 

 

 

古典の時間3

今回の古典は源氏物語の続編を考えてみようとのことでした。

 

源氏物語

紫式部が書いた全54巻の物語であり、光源氏の誕生から恋愛、栄華、晩年とその子供たちの時代である薫と匂宮の時代が描かれています(宇治十帖)。物語はすっきりしないまま終わるようで、読者が宇治十帖の続きを考えて書いた「山路の露」という続編があるそうです。

まず私は源氏物語は源氏のことだけが書かれていると思っており、その子供たちの時代まで書かれていたということは知らず、その時点で少し驚きました。

 

なぜ紫式部はすっきりと終らない第3部を書いたのか

私が考えた理由

その1

光源氏が死亡したところにあたる雲隠の巻はタイトルだけで記事はないということで、本当に紫式部が内容を書いていなかったのであるならば、主人公光源氏の存在は物語の中でも、作者紫式部にとっても大きな存在であり、その死んでいく様子を描きたくなかった。そのため光源氏のいない世界である第3部を幸せに終わらせたくなかった。

その2

単に雲隠の中身がないのは悲しむ読者を出したくなかったり、読者が本を写していく過程でなかったことにしたりしただけであり、3部は読者の期待に応えて書いてみたものの上手く続かなかっただけだった。

その3

実は紫式部はハッピーエンドが苦手だった。

2つ目か3つ目の理由だったらちょっとがっかりですね。

 

宇治十帖

宇治十帖は匂宮と薫との間で板挟みとなり悩んだ浮舟が入水自殺を図るも失敗、その後出家する そこに浮舟を想い続ける薫が文を送る しかし拒絶され続けるという感じで終わるようです。なぜか捨てられずにとっておいた高校の頃の国語便覧を見直し授業中いろいろ誤解していたと気づきました。(捨てられなかったのですが読み直す日が来るとは思いませんでした。)

私は授業中は続編を書くなら薫と浮舟のハッピーエンドを!と思っていました。しかし便覧を読んでみて、薫の浮舟への一途さは忘れられない大君の面影を追っているところからくるのかな?だとすれば浮舟はうすうす薫にそういうところがある(自分に大君を重ねている)と気づいていたんじゃないか?そうすると入水自殺にいたったのもただ2人の男の間で揺れる自分に酔っていたということはないか?と思い、山路の露のようにはっきりしないまま終わらせてもいいかなと思いました。(源氏物語を読んでないのでとても勝手な憶測でまた誤解しているかもですが)

 

私の考える続編

浮舟のもとに届けられる薫からの文。薫は直接会いに来ることはなかったが、その文は浮舟の弟を通して何度も届けられた。過去と決別する硬い意志を持ち、はじめは拒絶していた浮舟だがだんだん揺らいでしまい、また悩み始めてしまう。そんな浮舟を弟は見かねて、誰かに相談してみてはどうだろうかと提案する。文でいろんな人の相談に乗ってくれる人がおり、皆悩み事を文でその人に相談しているらしいということだった。実はいろんな相談にのっていたという人は薫であり、浮舟のような悩める人を救いたいという思いから始めたのだった。そんなことを知らない浮舟は悩める自分の気持ちを書き送った。薫は送られてきた文を見て、内容からするともしかしたら浮舟かもしれないとも思ったが、悩む浮舟の様子を想像すると心が痛み、自分の都合のいいようにアドバイスをすることもできず、自ら過去と決別することを勧める内容を書き送ってしまった。

まず相談事を文で送ることはあったのか?宇治十帖の最後、薫は浮舟に他の男がもういるのではないかと邪推していたようだし、匂宮よりは誠実なのかもしれないが、浮舟への気持ちを抑え、決別を勧められるほどの誠実さはあるのか?など、いろいろちぐはぐだとは思うのですが他に思いつきませんでした。

 

最後に…古典を学ぶ意味とは

源氏物語を考えていく中で、昔と今では風習や考えが違いすぎて、想像とはかなり異なるんじゃないか と憶測で考えることは難しいなと思いました。古典の時間の最初に先生が言っていたように古典に今のあたりまえは通じず、昔のあたりまえを想像すると同時に今のあたりまえも考えさせられるなと思いました。また、昔の人は根拠のないものを恐れたり、悩んだり、頼ったりしていて、正直そんなことを恐がる?とかそんな意味のないことをしていたの?とか理解できないことがあります。しかし、同じようにずっと時が経ち未来の人が今を学んだ時には、やはりそう感じるのだろうかと思いました。

今の時代にはない価値観を知ったり、その違いから今はどうか考えてみたり、と時代を比べることで価値観を学べるところが古典の良さかなと思いました。文法だけじゃなくそういったところに古典を学ぶ意味があるのかなと思いました。

 

 

 

古典の時間 2

先週も引き続き古典を学びました。新海誠監督の映画「君の名は」は夢の中で男女が入れ替わりますが、それは古典の「とりかえばや物語」や小野小町の和歌「夢と知りせば覚めざらましを」を引用していたようで、「君の名は」における古典文学の引用を考えました。

 

古典での夢の意味

多くの古典で出てくる夢は、夢に出てきた相手が自分のことを好きであるという恋の暗示を持つものとして話の中に登場していたようです。しかし小野小町の「夢と知りせば」は自分が好きな相手を想って寝たから夢に出てきてくれたのだという全く逆の考え方をしていたものだそうです。また、古典では不思議な出会いは夢をキーワードに描かれることがあったということで、伊勢物語の中でも夢の中で出会ったような話があるとのことでした。

 

古典の男女入れ替え物語

男女入れ替え物語は、女装したり、男装したり、中身が入れ替わったりと様々なものがありますが、その最古の物語は兄妹が入れ替わる「とりかえばや物語」だそうです。男装、女装した状態で兄妹がそれぞれ異性に恋をするストーリーだそうで、最後は男装、女装をといて普通の姿で結ばれるそうです。

 

数ある男女入れ替え物語の中で「君の名は」が工夫した点

私が見たことのあった男女入れ替え物語(主に男装)は、(ドラマ)イケメンパラダイス、コーヒープリンス1号店、雲が描いた月明かり、(漫画)木曜日は君と泣きたい などです。韓国ドラマは男装ものが多いと思います。面白いですよね。これらと「君の名は」の相違点を考えていきたいと思います。

「君の名は」は

・目が覚めたら相手のことを忘れてしまう

・入れ替わりたくて入れ替わったわけじゃない

・元の性に(ほかの作品と比べると)不満はない

・入れ替わった時に元の性の良さを発揮している

といったところでしょうか。男女入れ替えものではなんらかの入れ替わらなくてはならない本人の個人的事情から入れ替わることが多いと思います。しかし「君の名は」は意味ある入れ替わりではあるものの、本人の意図なしに(想いはあったのか?)入れ替わっています。そしてずっと元の性に不満があるわけでもありません(三葉はあったかもしれない)。また入れ替わった時に元の性の良さを発揮しているというところもなかなかほかの物語にはない点かなと思いました。(どの作品かはヒーローだけがヒロインの隠していても時々見える女らしさに気づく的な設定はあった気はします。)他の入れ替え物語同様周囲にばれないように男っぽい、女っぽいしぐさをまねるというところはありますが、2人とも入れ替わった時に隠さず女・男らしさ、その本人の良さを発揮していました(気づいていないかったり、気にしていなかったりするからだとは思いますが)。見た目は瀧君(中身は三葉)のときは、破れた小野寺先輩のスカートを縫ったり、三葉の一生懸命で可愛らしいところが小野寺先輩に気に入られデートにこぎつけたりしていました。見た目は三葉のときは、バスケでガンガン格好よくシュートを決めたり、いやなことをいう相手にきちんと(荒っぽいですが)自分の意見を言ったりしていました。こういった点が昔からある男女入れ替え物語を引用しながらも「君の名は」が新しく工夫した点かなと思いました。スッキリとした感じがあり面白いなと思いました。

 

物語を引用することで表現したいものとは何か

私が物語の引用というところで思いついたのはムーランルージュというミュージカル映画図書館戦争という本です。ムーランルージュは物語の引用というよりは歌詞の引用になるのですが、この映画の中では様々な有名曲を引用しながら物語が進んでいきます。引用することでなじみやすさがあり歌詞が入ってきやすく、ストーリーや物語のテーマが分かりやすくなるのかなと思いました。また、ミュージカル映画では1つの作品の中でその作品の引用曲が出てくることが多々あります。1つの曲やメロディが場面、人、歌詞や調、リズムを変えて何回も登場するということです。そうすることで同じ歌でも前とは違う意味を帯び、場面や感情の対比が分かりやすくなり、言葉で説明しなくとも伝わるのです。そしてもう1つ、図書館戦争は「図書館の自由に関する宣言」という実際にある宣言文から(だけで)ストーリーがふくらませられている作品です。本を守るために図書隊という架空の組織が戦争するわ、甘々なラブストーリーも挟むわでかなり忙しい(?)作品ではあるのですが、表現の自由を守るという図書館戦争における大きなテーマがぶれずに軸にあり続けることができている理由の一つには、実際にある宣言を引用していることが挙げられるのかなと思います。

このように物語を引用することで、テーマや軸がはっきりと分かりやすくなったり馴染みやすくなったりすると思います。また、引用元との比較ににより物語の独自性が際立ったり、伝えたいことや登場人物の感情がより分かりやすくなるのではないかと思いました。

 

 

古典の時間

先週のゼミでは横山先生から古典を学びました。

 

古典を学ぶ理由

古典を学ぶことで今と昔を相対化することができ、今の日本をより知ることができる

また今の「あたりまえ」を疑うことができる と先生は言われました。

私は古典を学ぶことで昔の人々の生活や考えを知ることができると思ったのですが、確かにその先には「今」との対比があるなと思い納得しました。

 

徒然草のなかで不思議な箇所は?

徒然草の序段の中で不思議に思うところはないかと問われたのですが、それ以前に全く古文が分からなくなっていてかなりショックを受けました。そして先生から「硯にむかひて」って不思議に思いませんかって言われたのも驚きでした。私はなんとなくあー硯ね、ぐらいにしか思っていなかったし、硯に向かひて=机に向かってと捉え、ちいさな台の上に硯がのっていて、それにむかって背筋を伸ばして正座をしている女性がいるというものを勝手にイメージしていました。だから「硯にむかひて」の江戸時代の解釈は硯以外に調度がないため とされているということを聞き、そうか机や台がない可能性もあったのか!となりました。

 

古文の解釈はどう定めていくのか

タイムマシンがあるわけじゃあないし、実際どうやっていたかをみることはできない。では、どのようにして「硯にむかひて」のようなことの解釈を定めていったらいいのでしょうか。古典を研究していくときには、同じ作者の作品から傾向を調べたり、様々な作品の類似した表現を探したりして解釈を考えていくそうです。そのようにして徒然草をみてみると、徒然草源氏物語と似た(似せた)箇所が多々あるようでした。2つを比べてみていくと、思いつめたときや悩みがあるとき、人には言えない秘めた思いがあるときなどに「硯にむかった」のではないのかと推測できそうでした。昔の人にとって「書く」という行為は意味を持った大事な行為であったようです。

 

昔の「書く」という行為の位置づけ

昔の「書く」という行為にはあふれる思いや言葉にできない思いをとどめておくという意味があったり、誰に見せるわけでもない自分の内に秘めた思いを書き付けておくという意味があったりするのではないかという意見がでました。私は、秘めた心を記しておくということは自分の心を整理したり、落ち着かせたりする行為でもあったのかなと思いました。昔の人は今よりも自分の気持ちを書くことに抵抗がなく、むしろ自然な行為であったのかなと思います。徒然なるままに書くということは、特に何もなくても書く、何もないから書くということでしょうか。身分にもよるとは思うのですが、書いている間は自分と向き合う時間であり、その行為は日常に根付いていたものだったのかなと思います。そして、硯にむかって書くということは墨をすり文字を書くということであり、ルーティンではないですがその一連の行為が心を整えるものでもあったのかなと思いました。習字=正座と思っていましたが、もっとリラックスした感じで書いていたのかもしれないとすると、正座ではなくもっと崩した格好で書いていた可能性もあるのでしょうか。

 

昔の人は言葉や色を現代の人よりも大切にしていたのだろうなということは感じていましたが、今回「書く」という行為も今とは少し違う意味合いを持つものだったのだと知り、昔の人は他にはどのようなことを大切にしながら暮らしていたのだろうと興味がわきました。レモンの話もありましたが、同じ表現をみていくことで解釈が広がり、作品を深く知ることができるというのはとても面白いなと思いました。

 

哲学の時間 3

先週も引き続き須永先生に来ていただき、差別について考えました。

今回の問い

1 われわれは自分が愛着を持っているコミュニティに対して、ほかの人も同じように愛着を持ってもらいたいと思ってしまうのはなぜか?そしてその気持ちは持っていてよいものなのか、それとも制御すべきものなのか?(だとするとどうなるのか?)

2 怠け者のB君を、「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、なぜ問題なのか?

前回と同様この問いについてグループに分かれて対話をしました。

グループで出た答え

問い1

同じコミュニティの他の人に愛着を持ってほしいと思うとき

→自分のコミュニティに愛着を持つと、他のコミュニティに負けてないぞという対抗心が生まれることがある。すると団結するために愛着を持ってほしいと思うのではないか

他のコミュニティの他の人に愛着を持ってほしいと思うとき

→他のコミュニティの人にも愛着を持ってもらえたら攻撃、差別される危険性が薄くなるだろうという自分のコミュニティを守るための自己防衛から愛着を持ってもらいたいと思うのではないか

問い2

人間として尊敬しなさいということは、大きな目で見なさいと言っているのではないか

→ということは細かいところを見たら尊敬できないという差別する気持ちを肯定しているようなものだから問題なのでは?

というような感じになりました。

問いというよりも差別というテーマを意識しすぎたかなとほかのグループの意見を聞いて思いました。

 

 

ではグループの意見に加えて自分の答えを考えていきたいと思います。

 

1 われわれは自分が愛着を持っているコミュニティに対して、ほかの人も同じように愛着を持ってもらいたいと思ってしまうのはなぜか?そしてその気持ちは持っていてよいものなのか、それとも制御すべきものなのか?(だとするとどうなるのか?)

私は「愛着を持つコミュニティ」で中学校の部活を思い出しました。部員以外に愛着を持ってほしい、部の存在をもっと知ってほしいと思ったことはありませんが、部員は愛着があって当たり前という雰囲気でした。だから部のことを考えないような行動をとる人、愛着のない人は白い目で見られていました。ちょっと盲目的だったというか宗教的な感じもあり、コミュニティに染まらなければならないという義務感があったなと思いました。みんなが好きなものは好きにならなきゃという思いがあり、無理やり自分を騙すような感じで好きになったものもありました。なんで私は本当はそれを好きじゃないんだろう、素直に好きになれたらいいのにと思った記憶があります。同じコミュニティの他の人に自分と同じように愛着を持ってほしいという思いは、仲間意識があれば当然のことであり、同じ目標を持つものであるならば愛着を持つことで団結でき、目標に近づくだろうからいいことだとは思います。しかし、行き過ぎると愛着を持たない、違う価値観のものを省いたり攻撃したりするようになってしまうと思います。価値観の強制はきついものであり、これを防ぐためにも愛着を持ってもらいたい気持ちの制御は必要だと思います。

他のコミュニティの人に自分のコミュニティの愛着を持ってもらいたいと思ったことはあまりないので分からないのですが、他のグループが言っていたように自分のコミュニティの良さをアピールすることは、その「良い」コミュニティに属する自分のアピールでもあるのかなと思いました。

 

 

2 怠け者のB君を、「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、なぜ問題なのか?

これはグループの答え以外思いつきませんでした。なんか言ってることは分かるようで分からないというか、あいまいだなと思いました。怠け者のB君の尊敬すべきところを具体的には言えないのに、それを考えさせるのはずるいなと思います。でも怠け者をいいと言っては「いいこと」が分からなくなってしまう。難しいなと思いました。

 

 

結局差別ってどこからなのでしょうか?今回の問いから考えてみると愛着を強制してしまったところで差別の始まりかなとも思ったのですが、実際は強制というのも「空気」みたいなものだからあいまいだし、その空気にみんなが快く従っているのならば問題ないはずなわけで....

価値語の話に合ったように、目に見えない無形のものは、その存在の人それぞれの捉え方あるから難しく、またその存在を認識しないことには始まらないのだなと思いました。いや、無理やり認識する必要もないのでしょうか。うーん、でも気づかないと知らないうちに害となってしまうこともあるし...でも... (-ω-;)

 

哲学の時間 2

 

 

今週のゼミでも先週に引き続き差別について考えました。二つの問いを投げかけられ、グループに分かれて対話をしました。

今回の問い

1.なぜわれわれは「あなたは差別をしている」と言われたくないのか?

2.差別をしたくない場合、どうすればいいか?

  あるいはそもそも差別はしてしまっても仕方のないものなのか?

哲学対話をしてみてグループでは

問1の答え

・小さな頃からしてはいけないといわれてきたから

・社会的に排除されるから

・周りの目が気になるから       

問2の答え

固定観念を取り除くべきなのではないか

・やはりしてしまっても仕方のない差別としては許されない差別があるのではないか

というような結果となりました。

何度も いやーわからんよと言いたくなりました。

特に問2が難しく、自分でも自分の考えが分かってないままの発言ばかりだったので申し訳ない気持ちともやもやした感じで対話の時間を終えました。

 

 

グループでも仕方のない差別と許されない差別に分けるべきという意見も出たしゼミの時間の最後に悪は大事な場合もあるとの話もあり、そうだよな~となんとなく納得したのですが、考えているうちに、え?本当に?仕方ないで済ませていいの?傷つく人がいても大事だといえる悪とかあるのか?と思い始めました。

私はずっと差別する側ばかりをを考えていたのでされる側のことも考えてみようと思います。

差別する側

・優越感がある(場合もある)

・不快だから遠ざける(場合もある)

・自分の価値観以外を認められない(場合もある)

・差別している自覚はない(場合もある)

罪悪感はある(場合もある)

差別される側

傷つく

・怒り

・味方で団結、立ち向かう場合もある

 

箇条書きで書きましたが差別される側に関してはまず、なによりも傷つくという感情があってからの怒りや立ち向かう勇気が生まれるのではないかと思いました。そして差別をする側は罪悪感もある場合があると思います。その罪悪感の中には差別といういけないことをしてしまった自分への罪悪感、または差別をしたことで傷つけてしまった相手への罪悪感どちらもあると思います。

このことを踏まえて問いを考えていこうと思います。

 

なぜわれわれは「あなたは差別をしている」と言われたくないのか?

 「あなたは差別をしている」と言われたくないと思うことには「あなたは差別をしている」=「あなたはいけないことをしている」と捉えているいう前提があるように思います。そしてそのことを自分中心で考えた場合には不安な気持ちが生まれ、差別した相手のことを考えた場合(直接差別をしたとき限定かもしれない)には罪悪感が生まれる から差別をしていると言われたくないのではないでしょうか。

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自分中心で考えたときの気持ち



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相手のことを考えたときの気持ち



 差別をしたくない場合、どうすればいいか
  あるいはそもそも差別はしてしまっても仕方のないものなのか?

まず私は差別をしたくない場合というのを、どうしてもいやに思ったり不快に思ったりしてしまい自分の差別する気持ちが止められない場合と捉えました。

そしてそれを止めるには本当にそれは不快なことなのか、なぜ嫌なのかを考えてみれば理由がわかり、そう思わないようにする方法が浮かぶのでは?と思いましたが不快であることの理由は自分ではわからないこと(生理的に無理みたいなみたいな)が多いと思うので本当にそれが不快なのかを考えるよりも、不快でないところ・いいところを探したらよいのかなと思いました。不快な部分よりもいい部分を思い浮かべるようにできれば差別する気持ちは自然と消えていくはずです。

ではいいところが見つからなかった(なかった)らどうでしょうか?

どう考えても悪いところしかない、最低な人だったら自分の中の差別する気持ちは抑えられないでしょうから、差別する気持ちが生まれることは仕方のないことだと思います。このようなどうあがいても差別の気持ちが生まれる時に、資料にもあったように差別してないようにふるまえばいいと思いました。でもこれは(自分の体裁のためもあると思いますが)基本は相手を傷つけないために、相手のことを思ってとる行動ですよね。ではその人が思いやるに値しなかったら、その人が差別されたことで自分の行動を自覚し改善されるのだとしたら、差別してないように振る舞う必要すらないのではないか、もはや堂々と差別をしてもいいのではないかと思えてきました。しかし、そのひとを価値のない人だという判断は主観的であり、自分がいくらその人は悪いと思っていてもある人から見たらそうではないかもしれません。そう考えると心の中の差別は止められないとしても、やはり、して仕方のない差別はないように思います。

私は差別はされたら傷つくのだと書きましたが、では差別された側が傷つかなかったら、そして怒りも生まれず争いも起きなかったら、または気づかなかったら(なかなかそんなことはないとは思いますが)してもいいということになるのだろうかと思いました。それは違うだろう、してはいけないだろうと普通はなると思うのですが、してはいけない理由が分かりません。もし自分が小学校でこのような質問をしたら、じゃああなたは気づかれなかったら悪いことをするのかな?とか聞かれそうですね。でも差別は人を傷つけてしまうから悪いとされているのでは?だから傷つく人がいなければ悪いことでもなくなるのかなと思ったんですけど... 

勝手に小学校の先生に反抗してみましたが、もし質問してたらなんて答えてくれたのかな。私が質問されたとしたら、一番最悪なパターンだと思いますが「いけんもんはいけんったい」と封じ込めてしまいそうです。