哲学の時間 3

先週も引き続き須永先生に来ていただき、差別について考えました。

今回の問い

1 われわれは自分が愛着を持っているコミュニティに対して、ほかの人も同じように愛着を持ってもらいたいと思ってしまうのはなぜか?そしてその気持ちは持っていてよいものなのか、それとも制御すべきものなのか?(だとするとどうなるのか?)

2 怠け者のB君を、「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、なぜ問題なのか?

前回と同様この問いについてグループに分かれて対話をしました。

グループで出た答え

問い1

同じコミュニティの他の人に愛着を持ってほしいと思うとき

→自分のコミュニティに愛着を持つと、他のコミュニティに負けてないぞという対抗心が生まれることがある。すると団結するために愛着を持ってほしいと思うのではないか

他のコミュニティの他の人に愛着を持ってほしいと思うとき

→他のコミュニティの人にも愛着を持ってもらえたら攻撃、差別される危険性が薄くなるだろうという自分のコミュニティを守るための自己防衛から愛着を持ってもらいたいと思うのではないか

問い2

人間として尊敬しなさいということは、大きな目で見なさいと言っているのではないか

→ということは細かいところを見たら尊敬できないという差別する気持ちを肯定しているようなものだから問題なのでは?

というような感じになりました。

問いというよりも差別というテーマを意識しすぎたかなとほかのグループの意見を聞いて思いました。

 

 

ではグループの意見に加えて自分の答えを考えていきたいと思います。

 

1 われわれは自分が愛着を持っているコミュニティに対して、ほかの人も同じように愛着を持ってもらいたいと思ってしまうのはなぜか?そしてその気持ちは持っていてよいものなのか、それとも制御すべきものなのか?(だとするとどうなるのか?)

私は「愛着を持つコミュニティ」で中学校の部活を思い出しました。部員以外に愛着を持ってほしい、部の存在をもっと知ってほしいと思ったことはありませんが、部員は愛着があって当たり前という雰囲気でした。だから部のことを考えないような行動をとる人、愛着のない人は白い目で見られていました。ちょっと盲目的だったというか宗教的な感じもあり、コミュニティに染まらなければならないという義務感があったなと思いました。みんなが好きなものは好きにならなきゃという思いがあり、無理やり自分を騙すような感じで好きになったものもありました。なんで私は本当はそれを好きじゃないんだろう、素直に好きになれたらいいのにと思った記憶があります。同じコミュニティの他の人に自分と同じように愛着を持ってほしいという思いは、仲間意識があれば当然のことであり、同じ目標を持つものであるならば愛着を持つことで団結でき、目標に近づくだろうからいいことだとは思います。しかし、行き過ぎると愛着を持たない、違う価値観のものを省いたり攻撃したりするようになってしまうと思います。価値観の強制はきついものであり、これを防ぐためにも愛着を持ってもらいたい気持ちの制御は必要だと思います。

他のコミュニティの人に自分のコミュニティの愛着を持ってもらいたいと思ったことはあまりないので分からないのですが、他のグループが言っていたように自分のコミュニティの良さをアピールすることは、その「良い」コミュニティに属する自分のアピールでもあるのかなと思いました。

 

 

2 怠け者のB君を、「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、なぜ問題なのか?

これはグループの答え以外思いつきませんでした。なんか言ってることは分かるようで分からないというか、あいまいだなと思いました。怠け者のB君の尊敬すべきところを具体的には言えないのに、それを考えさせるのはずるいなと思います。でも怠け者をいいと言っては「いいこと」が分からなくなってしまう。難しいなと思いました。

 

 

結局差別ってどこからなのでしょうか?今回の問いから考えてみると愛着を強制してしまったところで差別の始まりかなとも思ったのですが、実際は強制というのも「空気」みたいなものだからあいまいだし、その空気にみんなが快く従っているのならば問題ないはずなわけで....

価値語の話に合ったように、目に見えない無形のものは、その存在の人それぞれの捉え方あるから難しく、またその存在を認識しないことには始まらないのだなと思いました。いや、無理やり認識する必要もないのでしょうか。うーん、でも気づかないと知らないうちに害となってしまうこともあるし...でも... (-ω-;)