古典の時間3

今回の古典は源氏物語の続編を考えてみようとのことでした。

 

源氏物語

紫式部が書いた全54巻の物語であり、光源氏の誕生から恋愛、栄華、晩年とその子供たちの時代である薫と匂宮の時代が描かれています(宇治十帖)。物語はすっきりしないまま終わるようで、読者が宇治十帖の続きを考えて書いた「山路の露」という続編があるそうです。

まず私は源氏物語は源氏のことだけが書かれていると思っており、その子供たちの時代まで書かれていたということは知らず、その時点で少し驚きました。

 

なぜ紫式部はすっきりと終らない第3部を書いたのか

私が考えた理由

その1

光源氏が死亡したところにあたる雲隠の巻はタイトルだけで記事はないということで、本当に紫式部が内容を書いていなかったのであるならば、主人公光源氏の存在は物語の中でも、作者紫式部にとっても大きな存在であり、その死んでいく様子を描きたくなかった。そのため光源氏のいない世界である第3部を幸せに終わらせたくなかった。

その2

単に雲隠の中身がないのは悲しむ読者を出したくなかったり、読者が本を写していく過程でなかったことにしたりしただけであり、3部は読者の期待に応えて書いてみたものの上手く続かなかっただけだった。

その3

実は紫式部はハッピーエンドが苦手だった。

2つ目か3つ目の理由だったらちょっとがっかりですね。

 

宇治十帖

宇治十帖は匂宮と薫との間で板挟みとなり悩んだ浮舟が入水自殺を図るも失敗、その後出家する そこに浮舟を想い続ける薫が文を送る しかし拒絶され続けるという感じで終わるようです。なぜか捨てられずにとっておいた高校の頃の国語便覧を見直し授業中いろいろ誤解していたと気づきました。(捨てられなかったのですが読み直す日が来るとは思いませんでした。)

私は授業中は続編を書くなら薫と浮舟のハッピーエンドを!と思っていました。しかし便覧を読んでみて、薫の浮舟への一途さは忘れられない大君の面影を追っているところからくるのかな?だとすれば浮舟はうすうす薫にそういうところがある(自分に大君を重ねている)と気づいていたんじゃないか?そうすると入水自殺にいたったのもただ2人の男の間で揺れる自分に酔っていたということはないか?と思い、山路の露のようにはっきりしないまま終わらせてもいいかなと思いました。(源氏物語を読んでないのでとても勝手な憶測でまた誤解しているかもですが)

 

私の考える続編

浮舟のもとに届けられる薫からの文。薫は直接会いに来ることはなかったが、その文は浮舟の弟を通して何度も届けられた。過去と決別する硬い意志を持ち、はじめは拒絶していた浮舟だがだんだん揺らいでしまい、また悩み始めてしまう。そんな浮舟を弟は見かねて、誰かに相談してみてはどうだろうかと提案する。文でいろんな人の相談に乗ってくれる人がおり、皆悩み事を文でその人に相談しているらしいということだった。実はいろんな相談にのっていたという人は薫であり、浮舟のような悩める人を救いたいという思いから始めたのだった。そんなことを知らない浮舟は悩める自分の気持ちを書き送った。薫は送られてきた文を見て、内容からするともしかしたら浮舟かもしれないとも思ったが、悩む浮舟の様子を想像すると心が痛み、自分の都合のいいようにアドバイスをすることもできず、自ら過去と決別することを勧める内容を書き送ってしまった。

まず相談事を文で送ることはあったのか?宇治十帖の最後、薫は浮舟に他の男がもういるのではないかと邪推していたようだし、匂宮よりは誠実なのかもしれないが、浮舟への気持ちを抑え、決別を勧められるほどの誠実さはあるのか?など、いろいろちぐはぐだとは思うのですが他に思いつきませんでした。

 

最後に…古典を学ぶ意味とは

源氏物語を考えていく中で、昔と今では風習や考えが違いすぎて、想像とはかなり異なるんじゃないか と憶測で考えることは難しいなと思いました。古典の時間の最初に先生が言っていたように古典に今のあたりまえは通じず、昔のあたりまえを想像すると同時に今のあたりまえも考えさせられるなと思いました。また、昔の人は根拠のないものを恐れたり、悩んだり、頼ったりしていて、正直そんなことを恐がる?とかそんな意味のないことをしていたの?とか理解できないことがあります。しかし、同じようにずっと時が経ち未来の人が今を学んだ時には、やはりそう感じるのだろうかと思いました。

今の時代にはない価値観を知ったり、その違いから今はどうか考えてみたり、と時代を比べることで価値観を学べるところが古典の良さかなと思いました。文法だけじゃなくそういったところに古典を学ぶ意味があるのかなと思いました。