古典の時間
先週のゼミでは横山先生から古典を学びました。
古典を学ぶ理由
古典を学ぶことで今と昔を相対化することができ、今の日本をより知ることができる
また今の「あたりまえ」を疑うことができる と先生は言われました。
私は古典を学ぶことで昔の人々の生活や考えを知ることができると思ったのですが、確かにその先には「今」との対比があるなと思い納得しました。
徒然草のなかで不思議な箇所は?
徒然草の序段の中で不思議に思うところはないかと問われたのですが、それ以前に全く古文が分からなくなっていてかなりショックを受けました。そして先生から「硯にむかひて」って不思議に思いませんかって言われたのも驚きでした。私はなんとなくあー硯ね、ぐらいにしか思っていなかったし、硯に向かひて=机に向かってと捉え、ちいさな台の上に硯がのっていて、それにむかって背筋を伸ばして正座をしている女性がいるというものを勝手にイメージしていました。だから「硯にむかひて」の江戸時代の解釈は硯以外に調度がないため とされているということを聞き、そうか机や台がない可能性もあったのか!となりました。
古文の解釈はどう定めていくのか
タイムマシンがあるわけじゃあないし、実際どうやっていたかをみることはできない。では、どのようにして「硯にむかひて」のようなことの解釈を定めていったらいいのでしょうか。古典を研究していくときには、同じ作者の作品から傾向を調べたり、様々な作品の類似した表現を探したりして解釈を考えていくそうです。そのようにして徒然草をみてみると、徒然草は源氏物語と似た(似せた)箇所が多々あるようでした。2つを比べてみていくと、思いつめたときや悩みがあるとき、人には言えない秘めた思いがあるときなどに「硯にむかった」のではないのかと推測できそうでした。昔の人にとって「書く」という行為は意味を持った大事な行為であったようです。
昔の「書く」という行為の位置づけ
昔の「書く」という行為にはあふれる思いや言葉にできない思いをとどめておくという意味があったり、誰に見せるわけでもない自分の内に秘めた思いを書き付けておくという意味があったりするのではないかという意見がでました。私は、秘めた心を記しておくということは自分の心を整理したり、落ち着かせたりする行為でもあったのかなと思いました。昔の人は今よりも自分の気持ちを書くことに抵抗がなく、むしろ自然な行為であったのかなと思います。徒然なるままに書くということは、特に何もなくても書く、何もないから書くということでしょうか。身分にもよるとは思うのですが、書いている間は自分と向き合う時間であり、その行為は日常に根付いていたものだったのかなと思います。そして、硯にむかって書くということは墨をすり文字を書くということであり、ルーティンではないですがその一連の行為が心を整えるものでもあったのかなと思いました。習字=正座と思っていましたが、もっとリラックスした感じで書いていたのかもしれないとすると、正座ではなくもっと崩した格好で書いていた可能性もあるのでしょうか。
昔の人は言葉や色を現代の人よりも大切にしていたのだろうなということは感じていましたが、今回「書く」という行為も今とは少し違う意味合いを持つものだったのだと知り、昔の人は他にはどのようなことを大切にしながら暮らしていたのだろうと興味がわきました。レモンの話もありましたが、同じ表現をみていくことで解釈が広がり、作品を深く知ることができるというのはとても面白いなと思いました。